【ニュースの小ネタ】日本人がゴジラと戦うのを嫌う人達


godzilla

シン・ゴジラが公開から二週目がたち、方々で感想が聞かれるようになりました。

見てない方も「ゴジラという災害と日本が闘う話」というアウトラインくらいは耳に(目に)しているのではないでしょうか。

今回のゴジラは初代のゴジラ、1984年のゴジラと同様、ゴジラは単なる理不尽な災害として描かれています。対戦するライバルの怪獣はいません。人類やら地球やら自然やらを守るつもりは到底ありません。アクアトンネルを踏み抜き、蒲田東口の商店街を駆け抜け、放射能をまき散らして京浜運河に逃げたと思えば鎌倉から再上陸、今神奈川で一番ナウい武蔵小杉で自衛隊を蹴散らし、東京駅付近で放射熱線をぶちまける破壊の権化です。ゴジラの進撃を食い止めるべく飛来した米軍B-2爆撃機のMOPも通用せず、逆に熱線で真っ二つにされた時、「もうこれ勝ち目ないじゃん」と作中の人物と同じような絶望を感じてしまいました。

隣を見ればオジサンが口に手を当てて息を飲んでました。「女子かよ!」と思いましたが、そうなりますよね、わかります。

ウルトラマンレオのシルバーブルーメとか、同じ庵野監督つながりで言えばテレビ版エヴァンゲリオンのゼルエルなど、特撮やアニメの中には明らかに視聴者に絶望を与えてくるような怪獣がいます。ただ強いというだけではなく、短時間で主人公たちの環境を破壊し、物理ダメージ以上に気力を削るタイプの怪獣です。
この手の怪獣は自身も強力なステータスを持っていますが、破壊行為により「仮に勝てたとしてもこの後どうにもならないのではないか」という、作中の主人公と視聴者の希望を打ち砕きます。

希望がなければ再起、すなわち反撃はできません。シン・ゴジラも含め創作内では、誰か一人が諦めずにいるおかげで勝利できたり、絶望の中でも反撃のとっかかり、勝利への希望が見つかることによって最終的には勝利を得ます。当たり前ですが、どんなに怪獣が強力だったとしても、負けっ放しで終わっては視聴者側は腑に落ちません。

この手の「解決せずに幕引き」という手法は、ドキュメンタリーでは往々にしてよくある手法です。ドキュメンタリーの目的が問題提起であり、今後の解決の見通しがたっていないような問題なら、複数の選択肢を提示する程度の結末しか得られないので仕方ありません。しかし、エンターテイメントはドキュメンタリーではありません。しかしドキュメンタリーを作り慣れている、見慣れている人達は、あらゆる映像に社会的な意義、政治的な意味を求めたがります。ましてドキュメンタリー「タッチ」の作品ならなおさらなのでしょう。

そのような方たちからは、シン・ゴジラに対して「日本政府がこんなに動けるはずがない」「日本人を美化しすぎている」等々の意見が出されているようです。

例えば、このような批評です。

『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」野暮は承知であえて言う(現代ビジネス)

実際の日本政府ならこうはいかない、日本人はこんなにかっこよくはない。その通りでしょう。実際には各省庁が分裂する。日本軍だって陸海軍で分裂対峙した。その通りです。しかし有事に際して一挙団結できないのは日本に限った話ではありません。どこの国だって派閥はあります。しかしハリウッドのアメリカ国難系映画にはなんのケチをつけずにシン・ゴジラはリアルじゃないとレッテルを貼るのはフェアではありません。

もし、『シン・ゴジラ』を観て、「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」と本当に思ったとすれば、そんなものは虚構のなかにとどめておかなければならない。「失われた20余年」に繰り返されてきたこうした願望の発露は、その実現可能性ではなく、その徹底的な不可能性を示していると考えるべきだ。

私は「日本はまだまだやれる」とは思いましたが、「立派な指導者が」とは思いませんでした。そもそも328人も「キャスト」がいるシン・ゴジラに対してリーダー論なんて当てはまりません。物語の後ろでは映像に映らない人達も戦っています。ゴジラに絶望して疎開する人々の姿もあります。そのような様々な人々全員がゴジラの「キャスト」です。主人公がいなければストーリーがまわらないので、その定点として行政がすえおかれただけの話です。

実際の政治家や官僚の動きをシミュレートした脚本が与えられていますが、そもそもシン・ゴジラは創作であって、リアリティはあくまで作品内の整合性を持たせるためのものであって、「実際」を映すドキュメンタリーのリアリズムとは異なります。

昨日掲載した記事とも重複しますが、暴力的な旧軍の上官にドキュメンタリー性があるかという話です。これら士官が横暴なのは映画のテーマ、例えば反戦だったり平和だったりが決まっていて、そのために上官は横暴でなければならないのです。実際にモデルとなった人、もしくはイメージがあったとしても、映画の中に出てくるその役は俳優が演じた偽の人格です。これは歴史ドラマなど実際の人間を扱ったものでも一緒です。その人は本当にいたかもしれないけど、作品に出てくるその人は、あくまで作品のテーマにアジャストされたキャラクターにすぎません。なぜなら実際の人物を人生や性格を精緻にトレースしても、資料としての価値はさておき物語としては面白くないからです。

なのでシン・ゴジラの日本政府および行政機関はあくまで架空のものであり、作中の日本政府がどうであったからといって実際の政府を美化するものではなく、あの世界に必要な日本政府としての要素を詰め込んだものに過ぎません。そして普通の人は、作中の日本政府は頑張ったと思って終わります。あの作品にプロパガンダを求める方が無理筋と言えるでしょう。

続いて「日本人が美化されている」という批評です。

シン・ゴジラに出てくる日本人はファンタジー(ヤフーニュース 古谷由希子)

そりゃファンタジーですよ、だってフィクションですもの。シン・ゴジラの中に用意された日本も国連常任理事国も日本政府も自衛隊も全部虚構です。今の日本からタマネギの皮一枚めくった世界です。今の世界と地続きに見えますが、ゴジラというあり得ない災厄が登場している時点で全てフィクションです。行政ドラマのリアルさになんとなく騙される人が多数いますが、映像の中の世界はどこまでいっても虚構であって、リアルで大杉漣が総理大臣になることなどありえません。

なにより創作に願望を入れてはならないというなら、お忍びでローマにやってきたお姫様とのラブストーリーも成立しないし下町ロケットだって打ち上がりません。

なにより彼ら批判者のいう「日本人が美化されている」という文脈からすれば、主人公が超能力を持った少年であっても優秀な体術を駆使する自衛官であっても、日本人がゴジラと闘う限り「日本人を美化している」といえてしまいます。つまり彼らのロジックにかかれば日本にゴジラが出現した時点でなすすべもなく蹂躙されなければ、何をしようと「日本が美化された」と言えてしまうのですね。とんでもないマジックワードです。

日本人はゴジラの出現に慌てふためき、為す術無く踏みつぶされ、焼かれ、無駄死にしていかなければならないとでも言いたいのでしょうか。

高度成長期やバブル期のゴジラならそれでも良かったかもしれません。ゴジラや怪獣たちは日本人への教訓の顕現であったとしても許されたでしょう。

しかし平成大不況で就職難にあえぎ、阪神淡路大震災、東日本大震災などの災害で物理的に打ちのめされ、挙げ句の果てにゴジラがいなくともリアルに原発事故まで経験した日本人に、これ以上なんの教訓を与えればいいのでしょうか。こんな日本人に対して「夢」まで持つなというのでしょうか?

 

実際の日本政府は災害に対して無力だと言いたい人達がたくさんいるようですが、それについてはどこの国だって同じです。アメリカはハリケーン・カトリーナの時に適切な初動ができたでしょうか?その後の避難所運営で完璧な仕事ができたでしょうか?大災害という不測の事態に対し、どれだけ用意していても後手にまわるのは仕方のないことです。アメリカがダメなわけでも日本がダメなわけでもありません。後手に回った上で被害を最小限に食い止めようと人々は全力を尽くすのです。それは日本に限らずどの国だって同じはずです。

一番恥ずかしいのは、そのような災害に立ち向かう人達を揶揄して「震災から五年たってもいまだに立ち直れない日本がゴジラに迅速に対応できるわけがない」とバカな感想をしたり顔で言うことです。

今日は71回目の終戦記念日です。戦争と言う厄災からも日本は立ち上がりました。日本に限らず、人間には復興をなしとげる知恵と力があります。東日本大震災、鬼怒川の決壊、熊本地震と毎年のように大きな災害に見舞われていますが、そんな日本の今に対して、シン・ゴジラは諦めずに前向きに生きていこうというテーゼを、面白すぎる映像に練り込んでうたっている「だけ」の作品のように私は思いました。

そもそもシン・ゴジラって見終わった後に感動しますか? 私はただただ、ほっとしたんですけど。

(文/赤蟹)


赤蟹

スベスベマンジュウガニ並みに猛毒を吐きまくる赤い蟹の人。「てらどらいぶ」の裏ボス。サイト管理とコーディング、デザインなどを担当。文章を短くできないのが悩み。

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