【ゲームコラム】恐怖の大王とシューティング文化


80年代は「夢の時代」でありました。

科学と社会、経済が鰻登りで発展し、老若男女みんなが明るい未来を信じた時代でありました。

そんな80年代に最盛期を迎えた文化の一つが、超常現象、怪奇現象です。

科学が凄まじい勢いで発達していく中、科学でも説明がつかない現象、UFO、古代文明の遺産、心霊現象がまだまだあるはずだと子供向け雑誌やマンガがあおりにあおって、子供特有の冒険心に火をつけまくっていました。

しかし、これらの未知の現象には、高確率で「人類滅亡」の影が潜んでいました。

UFOは地球人類を奴隷化するために暗躍し、古代文明はかつて滅んだ超科学的文明人の痕跡として現代人類に警告し、心霊現象もまた人類の破滅へと収斂していくこともしばしばでした。あらゆる現象は人類絶滅へとつながり、どうあがいても逃れえぬ死の恐怖が子供達を震わせました。

しかし恐いものほど見たくなるのも人間の性。なので子供向けの雑誌やマンガにはいつでも「話は聞いた!人類は滅亡する!」という話がちりばめていました。

なぜ、こんな恐怖に溢れた悲観的な話が流行したのでしょう。

そのベースにあるのは、当時大流行した「ノストラダムスの大予言」です。

1973年に作家兼ライターの五島勉が発表した書籍「ノストラダムスの大予言」は、オイルショックや公害問題など、驀進を続けてきた日本社会とは裏腹に積層される影の部分が顕在化した時代に生まれました。
この頃は各常任理事国が示威的に大気圏核実験を繰り返していた時期でもあり、巨大な火球とそれから生み出される成層圏にまで達するキノコ雲の写真が頻繁に新聞に掲載されていました。
この大国による核実験の映像は、世界で唯一原子爆弾を落とされ、敗戦を迎えた日本人には一層リアルに人類滅亡を予感するに十分なものでした。

このような複数の社会不安要因が日本人特有の無常観と相まって、「ノストラダムスの大予言」は大ベストセラーに。以後1998年までの25年に及ぶ長期シリーズとなりました。

そんな「ノストラダムスの大予言」は、80年代の頃になると「予言の全貌が見えてきた」として、人類の滅亡過程が具体化されてきました。今から考えればシリーズを続けるための口実にすぎなかったと思えるのですが、当時のピュアなキッズたちは、明確な輪郭を持ち始めた「滅亡」の影におびえました。誰しも、「1999年には何歳だろう」と滅亡する時の年齢を数えた記憶があるはずです。

「ノストラダムスの大予言」が流行すると、今度はひと味違った滅亡のシナリオが注目されることになります。ヒトラーの復活するとか、ヨハネの黙示録に隠された666の数字とかです。また大予言ブームにあやかり、「大予言アイス」なるものも発売されました。
また、これら最終核戦争というテーマは「北斗の拳」を代表する「世紀末モノ」にも取り込まれ、キッズたちに199X年という絶望をリアルに突きつけました。

まあ、結局のところ、ノストラダムスの大予言なるものは単なる作り話でしたが、当時としてはそこそこ真剣な話として子供達の間を流通していたのです。

 

前述の通り、これら「破滅する人類」というテーマは、子供向けのコンテンツのそこかしこで使われていました。
その影響は、当時のキッズ達を魅了してやまないゲームにも及びました。

特にシューティングゲーム(以下STG)の世界は、これらの破滅のタームとSF的要素が結びつき、独特の「冷えた」世界観を作り上げた作品が多くありました。

 

「STGの設定なんて後づけじゃん」と言われそうですが、80年代後半はハードウェアの性能が飛躍的に向上し、ヴィジュアルの美麗さがゲームの面白さに繋がると信じられていた時代です。そのため各メーカーはチップの性能と相談しながら、限界ギリギリのドットワークでしのぎを削り合っていました。
それらのイメージワークに説得力をもたらす設定は必要だったわけです。
例えば「なぜ戦艦が全部魚介類なの?」という疑問に対し「単に魚のボスが出てくると楽しそうだから」という理由よりは「海洋生物を象った戦艦を操り各星系に侵略していたベルサーという存在が」と言ったほうがユーザー側も納得します。実際の理由が「魚の戦艦を出したかった」だったとしても、ストーリーで肉付けしてしまえばそれは世界観になるのです。

こうしてSTGは、ただ撃って避けるだけのゲームから、ストーリーラインを持つオペラのような存在へと進化していきます。

実際、STGはオペラ的です。
スタートからエンディングまで、ユーザーの思惑など一切気に留めることなく、ひたすらエンディングに向かっていく。しかし、オープニングとエンディングをのぞき、ほとんどのSTGはRPGなどのようにメッセージは出てきません。PCMで何か言ってるとか、シチュエーションを説明する断片的なセンテンス(その多くはステージタイトルとして記される)が表示される程度で、あとはヴィジュアルからユーザーが読み取り世界を感じるしかありません。
それゆえに解釈はプレーヤーにゆだねられ、そこに想像する余地が生まれます。その想像の幅が広がればこそユーザー同士での解釈をめぐってのコミュニケーションも生まれ、結果としてコンテンツの人気を生み出すファクターとなります。

そのストーリーラインを考察する前に、「日本は敗戦した」という前提を踏まえる必要があります。

太平洋戦争の敗北を経て、日本は大日本帝国から「平和国家」となりました。

そのため、戦争系コンテンツは、架空戦記ものでもなければ「謎の侵略者に対抗するために戦う」「仲間を救出するために戦う」「生き残るために戦う」など、防衛のために戦うという設定がつけられることがほとんどでした。これは弾をぶっぱなして破壊の限りをつくすSTGでも一緒です。宇宙戦艦ゴモラと暴れん坊天狗くらいじゃないんですかね。能動的に攻め込んでいるSTGって。

要するに侵略者は常に悪であり、現在のような多面的な価値観が確立したわけでもない当時としては、プレイヤーは正義の体現者でなければならなかったのです。

ただし、プレーヤーが防衛側であるというのは、単にモラルの問題だけではありません。

主人公に降りかかる難関や障害は、物語を作るメソッドの中でも基本かつ不可欠とされます。これらの苦境を描くには、侵攻側よりも反撃側の方が都合がいいのです。もちろんゲームの場合は実際には「敵」という難関が立ちはだかりますが、その難関にしても「理由」があったほうが盛り上がります。

戦闘が始まる理由が迫る危機であるなら、その危機はより悲観的で絶望的な方がプレイするモチベーションはあがります。
後々になって機体セレクトも一般的となりましたが、機数制であっても主人公機はただ一機のみ。そのため「人類に残されたのはただ一機の戦闘機のみ」であったり「輸送船を改造した戦闘機でエクソダス」と言ったシチュエーションを作りやすかったとも言えます。

このようにストーリーが重視されるようになる過程で、破滅的な設定へと進んでいったSTGも多くありました。多くというよりも、このような悲劇的な世界観のSTGは、ジャンルの中でも大きな位置をしめるほどになっていました。

ビジュアルの進化はストーリー性の強化に準ずるように、より絶望的な世界を表現し、物語に説得力を持たせる視覚的な役割を果たしました。

このような内容の変化は、ゲーム内だけに留まりません。これらのSTGは難解であったり、救いのないエンディングを迎えるものも少なくありませんでした。

例えば、敵母星を破壊したと思ったら自分の星も粉々にされていたとか、母国に戻ってきたら自分が侵略者になっていたとか。行き過ぎた武力を使った報いを受けるような、ある意味自虐的な結末となるゲームもありました。

かつては母星を飛び出し敵の中枢に殴り込みをかけていただけのSTGが、敵によって徹底的に破壊され、見るも無惨な姿となっていたり、地上一面に墓標が立ち並び死の臭いにむせたりと無残な故郷から旅立ち、先発もしくは同行していた僚機や母艦が破壊され、孤独の中で敵艦隊と相対し、敵中枢部に近づくほど熾烈となる敵中を突破し、最終面で待ち構えるラスボスとの死闘の末勝利したものの…というカンジでしょうか。

ここまで頑張ったのにこのエンディングはなんなのと思えるのですが、エンディングが衝撃的であればあるほど語りぐさにもなるわけで、このような悲劇的なエンディングは、ゲームの存在感とクリエイティブの方向性、そしてマーケティング的にも有効であったように思われます。

しかし、そんな悲劇性がユーザーから求められたからこそ、重厚なストーリーと破滅的なビジュアル、衝撃的なエンディングを兼ね備えた「名作」が数多く作られる結果にもなったのではないでしょうか。

では、なぜそのような悲劇性が受け入れられたのか。それは当時のゲームキッズ達が、少なからず人類の滅亡の影を見ていたからです。

しかし、その滅亡の影とやらは、ドンキホーテが相対した風車と同じく「実在しない巨人」だったわけですが、当時のキッズ達はその予言を信じようが信じまいが、「1999年に人類が滅びる」という情報には多く触れていたわけです。
前述のようにノストラダムス以外にも「破滅の予想」が子供向けに作られていきました。望む望まざるに関わらず「人類滅亡」というタームの津波を浴び続けていたのです。

結局、ノストラダムスの大予言は外れました。しかし、それが生み出した絶望感や諦観は決してムダではありませんでした。ノストラダムスの大予言は多くのコンテンツを揺籃しました。その中に、これら悲劇的STGも含まれていたと言えます。

逆に言えば、ノストラダムスの大予言がなければ、このような悲劇的STGの傑作たちもこの世に生み出されなかったかもしれない…ということです。

しかし。

90年代の半ばともなると、恐怖の大王よりも恐ろしい就職氷河期が80年代Kidsに襲いかかります。

今度は作り話でもなんでもありません。世情不安は現実のものとなりました。イメージにおびえていたころと違い、リアルな不安が(当時の)若者の胸に去来しました。

楽しすぎる80年代を過ごしたからこそ、圧倒的な絶望を与えた大不況。幼少の頃に恐れた「恐怖の大王」は就職氷河期という形で彼らに襲いかかりました。

定職につけない、来年までこの仕事ができるのか分からない。1999年よりも先に来そうな会社の倒産。経済復興策が思いつかない与野党はひたすら老人福祉の充実を競い合い、結果として多くの若者は政治に省みられることなく、「棄民」となりました。

東日本大震災の大津波は2万強の人の命を奪いましたが、この国では毎年それを上回る人間が人間関係や経済的な理由で自殺しています。

絶望は自然がもたらすものでも、外宇宙から飛来したエイリアンがもたらすものでもありません。

人こそが、人を絶望たらしめているのです。

…と、まとめると、なんだかタイトーのSTGっぽくないですか?(笑)

(文/赤蟹)


赤蟹

スベスベマンジュウガニ並みに猛毒を吐きまくる赤い蟹の人。「てらどらいぶ」の裏ボス。サイト管理とコーディング、デザインなどを担当。文章を短くできないのが悩み。

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