「気づき」「学び」と言っている間はなにも学べないし気づけない

意識高い系の人たちが好きな言葉として「気づき」「学び」というものがあります。

忙しい(と思っている)彼らはセミナーにせよ読書にせよ、そこから得られる「気づき」や「学び」、そして「成長」という要素を(必要以上に)重視します。

何かから積極的に学ぼうとする姿勢は大切ですが、「気づき」や「学び」を優先するあまり、かえってインプットの質を下げている「自称」意識の高い人たちも見受けられます(日々勉学と言わんばかりにSNSで「気づき」「学び」というタームを使いまくる人です)。

言い換えれば「気づき」や「学び」という考え方そのものが、「気づけない」「学べない」の原因となっているのではないでしょうか。

 

■要点しか読まない読書法がもたらす「気づけない」「学べない」

「気づき」「学び」という概念は、そもそも体験から生み出される経験則を知識に変えるという作業です。
体験の中にはもちろん読書も含まれますし、講演やセミナー、テレビやネットなどで様々な情報に触れるとものも含まれます。
経験豊かな先人の体験や、専門家の知識を吸収する(読む/聞く)のが「学び」であり、その教えを実践(体験)することで得られた経験を「気づき」と言います。
つまり、インプットからアウトプットまでの行程を「学び」と「気づき」という言葉で表している…ものと思われます。

しかし「気づき」「学び」という言葉が一人歩きしていった結果、あらゆるものにこの二つの要素を求める「意識の高い人」たちが爆誕しました。

あらゆる体験から何かを学び取ろうとする姿勢は大切ではありますが、あまりに「気づき」「学び」を効率良く吸収しようとする結果、なんら学べてない人たちが増えているのです。

読書で例示します。

最近のビジネス本は、章題を見れば、中身を細かく読まなくても内容が把握できるように編集されています。なぜなら本の内容(情報)を「必要」だと思ってもらわないと購買につながらないからです。

このような編集がデフォルトとなった結果、章題を読むだけでも「学べる」「気づける」と勘違いする人たちが現れました。

実際、コンサルタントをしている友人も「目次だけ読めば内容は理解できる」と豪語している人がいます。

そのように本を作っているのだから当たり前です。

しかし、タイトルの文脈は理解できても、本文を読まないので「なぜそのような結論に至ったか」という部分までは理解できません。つまり読書という体験を通したインプットをし損なっているのです。
彼らはなぜか自分の理解力を妄信しているので、章題の言わんとすることを「推測」でもって補います。
適当な推測をするくらいならその時間を使って文章を読めばいいのに、と思いますが、読書の習慣がない人にとっては、文章を読む行為そのものが苦痛なのです。また、読解力が低いために無理に文章を読んでも結局理解ができません。

読んで分からないのだから、本文を読んでも読まなくてもいいと彼らは考えます。むしろ効率を考えれば、読まずに推測で補ったほうが、時間も無駄になりません。

つまり、意識高い人たちがつかう「気づき」「学び」というのは、理解の効率化という名目(言い訳)の元に、情報のエッセンスをかいつまむことです。れはもちろん、読書に限りません。音声によるもの、ビジュアルによるもの、全てに適応されます。
熟読と熟慮の末に体得するものではないので、浅薄なセンテンスを覚えるだけに過ぎず、結果としてなにも学ばずなにも気づかないという状態になりがちで、当の本人たちは「気づけた」「学べた」と思っているのだからちょろいものです。

日本人の読解力は、ニュースになるほど低下しています。
「最後まで読んだ」と言っているにも関わらず、本の詳細やセンテンスを理解できない人が増えつつあるのも仕方ないかもしれません。
ネットの短文(短パラグラム)に慣れ、平易な文章しか読めなくなった人たちが、記事本文を読まずにコメントをつけるという現象があちらこちらで散見されるようになりましたが、これも文章を読めない(読まない)人たちが増えた結果とも言えます。

 

■「気づき」「学び」を求めている間は学習効果などでない

最近のビジネスセミナーの案内を見ると、この二言が頻出します。
前述の通り、時間をかけて体得するよりも、1~2時間程度のセミナーで成長が実感できるようなものをビジネスマンは求めるためです。ビジネスマンとしての成長を求める彼らにとって、知らない何かを「学ぶ」「気づく」ための投資はおしみません。需要があればビジネスとして成立するので、コンサル会社もどんどんセミナーを開きます。

しかし、これらのセミナーで教えてくれる事とは、複数の書籍のエッセンスをないまぜにして、それぞれのファクターに簡単な説明を加えたものにすぎません。

普段から読書の習慣がある人なら、会社の業務命令で(プライベートの時間を削られながら)セミナーに行かされ、中身のないビジネスキーワードの説明や、簡単すぎるビジネスメソッドの説明を聞いて唖然とした経験があるかと思います。

このようなセミナーは、そもそも勉強する習慣がない、もしくは勉強する時間がないほど忙しい人向けに行われるものです。

でも考えてもみてください。1~2時間程度のセミナーで成長できるって、逆説的に普段どれだけ学んでいないのか、という証左ではないでしょうか?

体験と熟考が欠けた学習が人を成長させることなど決してありません。学べても気づけてもなぜ成長できないのか、それは単に、「気づける」「学べる」情報(言葉)を仕入れただけに過ぎないからです。

 

■圧倒的インプットの前では「気づき」も「学び」も意味がない
あらゆる体験から気づきを得ようというどん欲な精神はすばらしいと思います。
しかし、目前にあるファクターをヒントとして感じられるかどうかは、これまで蓄積された教養や知識、体験によって決まってきます。
インスピレーションは日頃の思索の積み重ねが、何かをきっかけに顕現する現象です。思索はこれまで蓄えた体験や教養が言語化されて始めて可能になる行為です。考え続けた先に「気づき」はあるわけで、なにか意識が高い行動をとったから「気づける」というものではありません。
簡単に言えば、それまでの質の高いインプットの量によって、気づけるか、気づけないかが決まってくるということです。
圧倒的なインプットと、情報を整理し必要な時に取り出せる脳内インデックスを構築し、ひたすら思索にふけることで、始めて「そこにある何か」が「何であるか」が分かります。
「答え」を求めるために考え続け、何かをきっかけにそれが分かった、という体験は誰にでもあると思います。「気づき」もそれと同じです。普段から考えることもなく、なにかのセンテンスを覚えただけでは「気づき」にはならないのです。
章題だけを読んで分かった気になったり、気づきや学びをウリにしたセミナーで安易な知識を得るのは、はっきりいって意味がありません。そのセミナーの講師が海外の大学でMBAを取っていようが、外資系コンサルの出身だろうが関係ありません。学校の勉強もそうですが、教師は教えを導くだけであり、そこから先は自助努力をしなければ体得できません。
繰り返しますが、出席するだけで成長できる、「学び」や「気づき」があるセミナーなどありません。どれだけ素晴らしい本を買っても、隅々まで読み尽くし(場合によっては何度も読み返して)理解しなければ血肉にはなりません。
言い換えれば、「気づき」「学び」という言葉を使いたがる人(企業やコンサル)ほど、何も気づいてないし、何も学んでいないのです。
気づきにせよ学びにせよ、大切な事は、気づきや学びを意識せず、効率を考えずに大量の書籍や情報に触れ、多くの事柄について思索することです。
知識や教養の吸収にショートカットはありません。ひたすら頭に蓄え、時間をかけて咀嚼し、すべてを教養に変える。業務に必要な知識ばかりでなく、娯楽や美術というエモーショナルなものを体験し、有機的にファクトを結合していく。そしてまた考える。これを繰り返し続けて、はじめて何かを知ることができるのです。
最近、「気づき」「学び」を連呼する人たちの中身がすっからかんだったという体験が続き、腹立ち紛れにこんな駄文を書いてしまいました。いいことを言ってるように見えますが、当たり前の事を書いただけですので、あしからず。
(文/赤蟹)

赤蟹

スベスベマンジュウガニ並みに猛毒を吐きまくる赤い蟹の人。「てらどらいぶ」の裏ボス。サイト管理とコーディング、デザインなどを担当。文章を短くできないのが悩み。