ソシャゲをやめたくなる瞬間

二年半ほどプレイしていたグラブルだが、心が折れる出来事があってログインしなくなった。
「てらどらいぶ」でグラブルの記事があがらなくなったのも、プレイしなくなったからだ。

心が折れたといっても大した話ではない。2月に開催されたゼノイフリート戦の、あまりの高難易度と消費時間にうんざりしたことと、そしてゼノイフリート戦開催と前後してファイアーエンブレムヒーローズ(以下FEH)がサービスインしたためだ。

しかしそのFEHもやめてしまい、5年ぶりにソーシャルゲームから解放された。結果、可処分時間を読書やパッケージゲーム、映像コンテンツなどに振り分けることができるようになり、ソシャゲー一辺倒だった毎日から解放され、充実(?)した時間を送っている。

■パッケージゲームは可処分所得、ソーシャルゲームは可処分時間を奪い合う

パッケージゲームとソーシャルゲーム。いずれも「ゲーム」と名はついているが、ビジネス的にはまったく別のものだと言える。

パッケージゲームは「可処分所得」を奪いあう。
一度購入すればその後のプレイはユーザーのタイミングで決めることができる。いつ遊んでも、遊ばなくても、プレイ時間以上の時間拘束もない。DLCを追加投入する等の例外を除けば初期投資以上の資金はかからず、その追加にしてもリリースと同時に購入する必要がない。なんなら積んだまま、1年も2年もゲーム棚に寝かせておいても大丈夫だ。「いつか」遊べばいいのである。

ソーシャルゲームは「可処分時間」を奪いあう。
初期投資は無料なので、ユーザーの可処分所得、すなわち経済力は関係なしに「登録」できるし遊ぶこともできる。そのため「登録数1000万人」と言ったパッケージソフトでは考えられない桁外れなユーザーを囲うことができる。しかしDAUの観点からすれば、実際にプレイしているのは1割~3割程度であろう。
ソーシャルゲームはテレフォンマーケティングと一緒で、大数の法則に基づいてマーケティングが行われる。テレビCMや派手な新聞広告を打つのも、ユーザーの母数を稼ぐためである。

こうして囲い込んだユーザーに対し、運営は「絞りすぎず、与えすぎず」で巧みに可処分時間(と経済力)を支配していく。その鍵を握るのが、アクションポイントやスタミナと呼ばれるステータスと、ガチャである。

アクションポイントやスタミナは、ユーザーのゲームの機会を絞る。ガチャはほしいアイテムやキャラクターをしぼる。
ソーシャルゲームはユーザーの飢餓感を足がかりに成長していくのだ。

 

■飢餓感を煽ることでユーザーを維持するソーシャルゲームのパラドックス

ソーシャルゲームのビジネスは、ユーザーの可処分時間を奪いあうことだと書いた。
しかし実際にユーザーはアクションポイントやスタミナなどによって時間当たりのプレイ回数に上限が決められている。ソーシャルゲームはパッケージゲームと違い、好きなだけプレイすることはできないのだ。このあたりはアーケードゲームに似ている。課金すればプレイ継続できるというところも含めて。

ソーシャルゲームは時間による制限が多い。木曜日限定とか、時間限定など。結果、決まった時間(日にち/曜日)にプレイしないともったいなさとアイテムがもらえないという具体的なデメリットが生まれ、相まって義務感が生じる。プレイしたいという気持ちに義務感が乗るのだから、運営としてはニンマリだろう。その分回復アイテムを使ってもらえるし、手持ちが尽きれば購入に至るかもしれない。

このようなプレイ制限とプレイ機会の増加というパラドックスを結ぶのは、扇情的なキャラクターだ。

グラブルの有名な戦訓として「サプチケは下半身で選べ」というものがある。自分の(性的)嗜好に合ったキャラを選ぶことでオーナーシップが得られ、ゲームへのロイヤリティも高まるわけだ。このあたりの事情は他のソーシャルゲームも変わらないだろう。

「遊びたい!」「ほしい!」という気持ち、すなわちユーザーエクスペリエンスへの飢餓感が高まると、射幸心はより強く感じるようになる。空腹を我慢した後に食べるご飯のようなものだ。飢餓感と射幸心を巧みに使い分けることにより、ソーシャルゲームはユーザーロイヤリティを高めていく。そしてパッケージゲームを含めた他コンテンツに割りさく時間を奪いつくす。むしろ奪い尽くさなければ、ソーシャルゲームのビジネスモデルは成立しないのだ。

ソーシャルゲームは時間を奪い尽くす。ユーザーは時間を縛られる快感に溺れ、ガチャにどれだけお金をつぎ込んだのか、ということをさも武勇伝のように語り出す。運営の思い通りになっている証拠だ。
ただ、運営やユーザーを否定するのは間違いだ。運営側はそれに値するユーザーエクスペリエンスを与えており、ユーザー側もその対価として時間とカネを払っているのだから。そのように誘導するのがソーシャルゲームのビジネスのキモなのだ。

 

■夢から覚めるソシャゲの「取り残され感」

前述のように、グラブルを辞めた理由はゼノイフリート戦の難易度と戦闘時間の長さであった。
ゼノイフリートが段違いで難しいというわけではないのだが、FEHという、1ゲームが数分で終わってしまうゲームを遊びはじめた結果、30分近く延々と戦い続けるグラブルの戦闘に疲労感を覚えてしまったからだ。

ならばゼノイフリート戦を避け、次のイベントまで待てば良かったのでは? と言われそうだが、ハマっていればハマっているほど、イベントでの取り残しが気になるものだ。

そのイベントで手に入るべきものが手に入らないと感じた時、えもいわれぬ「取り残され感」が生まれる。
そこに「いつまでこの道を走り続ければいいんだ」という、終わりが見えない不安に気づいてしまうと、一気にやめたいという気持ちになってしまうのだ。

一度でもイベントに乗り損なうと、その後のプレイがどんどん雑になっていく。どのみち皆勤じゃないし、この前のイベント落としたしと、ゲームに対する真摯さを失ってしまうのだ(期間限定イベントの諸刃の剣である)。

ゴールが見えないつらさと、イベントというビッグウェーブに乗り損なった中堅プレイヤーは、次第にプレイしつづけることに対する疑問を抱き始める。それが不満に転化されると今まで見えなかったゲームにイヤな部分(これは、認知しているが目をつぶっていた部分とも言える)を感じるようになり、一気にモチベーションが下がっていく。

そして「次」が見つかればさっさと乗り換えてしまうだろう。

私の場合、それがFEHだった。しかしそのFEHも、諸々の事情でプレイしなくなった。かつては待ち遠しかったスタミナ回復のプッシュ通知を見て、なんて自分は自由な時間のない生活を送っていたのだろうと、冷静に考えるようになってしまった。

現在、その可処分時間は、他のコンテンツの消費や読書などのインプットのために使っている。ソーシャルゲームを遊んでいた時と比べて充実しているかといえば、そうは言い切れない。ソーシャルゲームに熱中していた時の方が、楽しかったかもしれない。しかし、いざやめてみると、これまでソーシャルゲームに費やしていた時間とお金で、様々なコンテンツに触れる機会が生まれた。
ソーシャルゲームがお金や時間の無駄とは決して言わないが、だらだら義務感に追われて遊ぶくらいなら、思い切ってやめてしまったほうがいいだろう…と思う。

アカウントさえ残しておけば、ソーシャルゲームはいつでも復帰できる。ウェルカムバックなどのキャンペーンに乗れればトクすることもあるだろう。ソーシャルゲームはいつでもDAUをほしがっている。復帰するユーザーに冷たくあたることなどない。ならば、遊ぶ気力を失ったらやめればいいだけのことなのである。


グラブルの記事掲載をやめた結果、「てらどらいぶ」のPVは激減してしまった。Googleの検索エンジンの見直しともぶつかったこと、アクセスにつながりづらい記事ばかりになってしまったこともあるが、人気ソーシャルゲームが生み出す知識欲求は本当に大きいのだと実感しているところである。

しかし、いつまでもグラブル頼りという訳にもいかない。グラブルも楽しいが、他にも面白いコンテンツは山ほどある。PVのためにグラブルを続けるのではなく、本当に面白いと思うものをユーザーに提供していけるメディアにしたいと、サービス開始一年半を迎えた今、気持ちを新たにしたのである。

(文/団長)


団長

「てらどらいぶ」管理人。 ゲーム開発のディレクター、動画配信サイト管理人のプロデューサーなどを歴任。 心のゲームは「ウィザードリィ」と「ザナドゥ」。ドラクエとFFならドラクエ派。

One thought on “ソシャゲをやめたくなる瞬間

  • 2017年7月14日 at 18:16
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    グラブルから逃げるな。

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