【ネタバレあり】青春の残照と苦さが口に広がる…古典部シリーズ評(その1)


フォロワーさんに勧められて古典部シリーズを読み始めたのですが、これ、本当に面白いですね! 一気に最新刊「いまさら翼といわれても」まで完読してしまいました。

人から勧められた小説をこんなに熱心に読むのは随分と久しぶり。しかも普段は読まないミステリー。最後に読んだのは、横山秀夫の「半落ち」以来です。

ご存じの通り古典部シリーズは「氷菓」は2014年にアニメ化もされています。
私はリアルタイムでは見ていなかったのですが、TwitterのTLには「奉太郎と千反田さんの夫婦ぶりにほっこり」という感想が流れていて、実際に作品に触れるまではゆる~い高校生活のラブコメだと勝手に勘違いしていたのですね(同様の勘違いは「響け!ユーフォニアム」でもやらかすのですが、それはまた別項にて)。

完全に騙されました。

まさか、こんなに口の中が苦くなる話だとは思いませんでしたよ。

古典部シリーズは、いわゆる日常の謎ミステリーです。誰かが死んだり、大けがをしたりということはまったくなく、日常の些細なトラブルを省エネ主義の主人公「折木奉太郎」が様々な状況を元に解き明かしていくという内容です。

以下、ちょっとしたネタバレを含む各作品の紹介と感想です。未見の方はご注意ください。

■氷菓

【あらすじ】
行方不明となった千反田さんの叔父、関谷純が残した言葉が何であったのか、学校(古典部)の過去を追いながら解き明かしていく。その課程で関谷純が文化祭を巡る学生運動に巻き込まれ、人生を狂わされていった事実を知る。全共闘らにあこがれた学生たちが、権力(この場合学生)闘争の熱情に酔い、過激な行動に走る中、運動の責任者に仕立て上げられた関谷純が最終的に責任を取る形で退学。その恨みを古典部の文集「氷菓」のタイトルに込めたことを知る。

【蟹の講評】
氷菓でテーマにされたのは、集団心理に酔った人たちと、その「祭」の首謀者に祭り上げられた人間の気の毒な末路。そして責任をとらなかったその他の無責任な「同調者」の残酷な人間性。
祭の熱狂に踊った人たちの多くは、責任をとらされることになった関谷を見捨て、その(押しつけた)英雄行為をたたえ、文化祭にカンヤ祭というアンオフィシャルな通称として残されていくことになります。もちろん、それは単なる欺瞞でなのですが。

つまり「カンヤ祭」は過去の学生運動と文化祭のダブルミーニングになっているのですね。

青春の残照が残した残酷な陰という苦々しい結末は、終盤になって一気に急展開を迎え、それまで気楽な「部活動の一環」として学校史を調べていた古典部メンバーを驚かせます。特に「氷菓」という文集に込められた言葉の意味を知った時、その重さにメンバーは絶句してしまいます。このシーンはアニメ版の方がより際立っており、ゾクッとします。叔父の言葉を思い出して感涙する千反田さんは、そんな人間の汚い部分を見せられて陰鬱とした気分にさせられた読者(視聴者)の心を浄化してくれます。千反田さん、マジ天使。

 

■愚者のエンドロール

【あらすじ】
シナリオライターが精神的な病で倒れてしまい、制作が中断していた自主映画の脚本の「続き」を解き明かすストーリー。
制作に携わった三人の「探偵志望者」の推測を聞きつつ、奉太郎は本当の結末を類推していく。
見事にシナリオの結末を言い当てた奉太郎は、「稚拙」な作品であった自主映画を素晴らしい内容へと「変えていく」。だが、その推理には大きな欠陥がいくつも空いていた。実は脚本のできを危惧した入須にそそのかされ、シナリオコンテストに参加させられていたのだ。氷菓事件を解決したことで得た多能感を入須に見破られ、奉太郎はうぬぼれを利用されてしまった自分の愚かさに気づく。

【蟹の講評】
物語の最初から本作品の結末の理由となる「稚拙な作品」という縦糸が張られています。そこに付随するのは、シナリオを独自に曲解し、暴走していく制作側と、それが理由で精神を病んでしまったシナリオライターの本郷という希薄な対立軸です。
「精巧に作られた腕(の小道具)」「大量の血糊」を用意されてしまい、気の弱さゆえそんな仲間の暴走(やる気)を止められず、むしろ彼らのやる気にこたえようと無理を重ねていってしまった(らしい)本郷の姿は、仲間の熱狂に乗せられて悲劇的結末を迎えた関谷純を思わせます。

そんな彼らをよそ目に、「本郷が書き上げようとした真のシナリオ」を推理し、ついに言い当てる奉太郎。その推理に入須は賞賛を送り、制作は続行されることに。しかしできあがった映画に対し、伊原、里志、そして千反田さんが「推理の穴」を指摘。奉太郎は自分が「やってしまったこと」に気づいてしまいます。

周囲の盛り上がりから逃げられなくなった本郷。映画作りという行為に熱中し、周囲が見えなくなってしまった2-Fの制作者たち。
奉太郎はそんな彼らの暴走を目の当たりにしながらも、結果的には彼ら同様、本郷のシナリオを無視した「自分の物語」を作ってしまいました。

しかしこれは、全ては映画を成功させるために仕組まれた入須の罠でした。つまり奉太郎は、入須という事件の首魁の策略に乗ってしまい、「探偵」としては早くも二作目にして敗北してします。

タイトルにある「愚者」はタロットのフールのことでしょうが、一方で奉太郎を含む「本郷のシナリオを改変してしまった」人々、事態の収拾という大義を掲げながらも、結果的に本郷と奉太郎の人格をないがしろにしてしまった入須も含めて、誰かの気持ちを推し量れなかった人々という意味でつけられているようにも思えます。

それにしても、本郷の立場は胸に迫るものがありました。
技術も能力もない(入須いわく「器じゃない」)のに仕事をおしつけられ、仲間たちの熱狂でシナリオはねじ曲げられ、ついには精神の均衡を失い、そしてシナリオが稚拙という理由で仕事をとりあげられるという、現代社会の悲哀を集約したかのようなキャラクターです。しかし奉太郎でさえ、彼女の気持ちを察することを「やめてしまった」わけです。この全体像が見えた時、本当に口の中が苦くなりました。今すぐ口をゆすいで、口腔内に残ったいろいろな感傷を捨て去りたい気持ちになりました。

映画完成後、奉太郎が自らの失態を知り、入須と対峙するシーンは本当に迫力があります。特にアニメ版は奉太郎の悔しそうな表情も含めて、見ているだけで胃がキリキリするほどのシーンに仕上がっていました。

愚者のエンドロールを読み終わった後の苦さが、私を古典部シリーズに引きずり込むきっかけになりました(氷菓の頃はそこまでではなかったのです)。
オトナになって子供の頃の「愚者」ぶりを後悔しているからこそ、本郷というキャラクターの残酷さ、そして奉太郎の失態に強烈な苦みを感じてしまうのでしょうね。

 


 

氷菓を読む以前の前情報として「夫婦でほっこり」以外に知っているキーワードとして「わたし、気になります!」がありました。でも、原作の氷菓の時点ではそんなに言ってないんですよね。ちょっと拍子抜けしました。
「遠回りする雛」が発刊された後に制作されたアニメ版は、千反田さんのキャラをわかりやすくするために第一話から気になっていましたが。
それにしても、アニメ第一話の「わたし、気になります」のシーンは良かったです。花をつけたツタでからめられ、じっくりと目をのぞきこまれた奉太郎。この後「千反田が気にするから」という理由で数々の謎を解き明かしていくことになりますが、奉太郎は、一話目から千反田さんに惚れてたんですよね。遠回りする雛まで自覚はなかったようですが(アニメ版は意識するような演出が多いですけど)。

それにしても千反田さんはかわいいですね。

その2に続きます。

(文/赤蟹)


赤蟹

スベスベマンジュウガニ並みに猛毒を吐きまくる赤い蟹の人。「てらどらいぶ」の裏ボス。サイト管理とコーディング、デザインなどを担当。文章を短くできないのが悩み。